文章記録

机の上に開かれた日記帳 隙間

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“ つらい時期が多めの人生 ” というのは、私がこれは日記ではないと言い張っている「文章記録」を読み返していた時に見つけた表現だ。見た目は日記と見分けのつかないそれは、しかし日記ではなく、感じたことを感じたままに書き記す文章記録なのだ。それが専門的には「筆記開示」と呼ばれる行為だったことは後になって知ったが、当時高校2年生だった私はそんなことを知らなかったし、大学時代にはそれは自分で見つけた自分を知るための方法として確立していたし、「筆記開示は日記ではなく記録」だと何かで読んで、いまではほらね、やっぱり日記じゃなくて文章記録だったんだよ、と何故かひとりで納得して誇らしげにすら思っている。文章記録。

泣いてばかりいたな、と思う。まるでいまは泣いていないような言い方をするね。小さい頃は、表現のしようがないから、ただただ泣くしかなかったんだと思う。10歳にも満たないような子どもが、「りゆうはなんだとしても、いまたしかに自分はつらいとおもって、ないていて、このつらさはたしかにここにあって、そのことだけはまちがいない」なんて、我思うゆえに我あり、みたいなことを膝を抱えながら感じていたなんて、よく大人になれたなと思う。そんなふうに感じていた時期が自分にもあったのに、昔、アスペルガーの恋人がつらそうにしていた時、どうしてそのことをすっぽり忘れてしまっていたんだろうね。

沢山の時間が流れて、よく笑うようになったな。それにしても、まだ、しっくりきてしまうんだよなあ。“ つらい時期が多めの人生 ” が。よく大人になれたなと思うとさっきは書いたけれど、大人になったつもりなんてないんだった。


文章記録の効果といえそうなのは、自分が日々感じている、普通ならわざわざ言語を通して考えることもないようなことどもや、感情に直結する一瞬の思考を、それでもとらえて言葉で説明できるようになったことだと思う。だから、いまは、あの頃と違って、泣いている理由を説明することができる。


もっと楽しいことも書きなよって思う。でも私は幸福であることに恐怖を感じる質の人間なので、ここに書かれていることは、しあわせそのものでもあるのかもしれないね。

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