それは文字通り、身を削るような恋愛だった。
死んでしまうんじゃないかと思うこともあった。
でも生きているし、すべてこれでよかった。
今は、心からそう思っている。
綺麗ごとではない。
綺麗なものだと思っている。
現在私には大切な人がいて、生きづらいながらも幸せに過ごしている。
その大切な人は彼ではない。
でも
もし、アスペルガーだった彼との出会いと別れがなければ、今の自分にはなり得なかっただろうし、『こころのいどころ』なんていうブログも生まれなかったように思う。
人と本気で付き合うことを避け続けていた。
人を知る方法や、愛し方もわからないまま。
誰かと生きることの喜びに興味など持たなかった。
ちなみに私はあえて1人で生きる道も全然悪くない思っている。
それが良いとか悪いとかではなく、彼と生きて私は変わった。
私と生きて彼も変わった。
それは「普通」の人が見るとわからないような変化だったとしても、だ。
彼と付き合っていた1年半は、私の人生において重要な意味を持っている。
彼は自身のことを無価値だと信じていたようだが、決してそんなことはない。
これから
私と同じような立場の誰かや、定型発達の方と付き合うアスペルガーの誰かが、私たちがしたようなつらい別れを経験しないで済むように
この2人は
いったいどうすれば、完全にとはいかずとも、わかり合うことができたのか
いや、わかり合ってはいたはずだ。
では
いったいどうすれば、人生でいちばんつらい別れを避けられたのか
自分が経験したことを振り返りながら、少しずつ綴っていきたいと思っている。
今つらいどなたかの救いに、考えるヒントに、少しでもなれれば嬉しく思う。
追記 2021-02-09
▼読んでくださる皆様へ
この記事は、執筆当時わりと思いのままに書いたもので、ずいぶんと長くなっていたり、抽象的でわかりにくい部分があったりするかもしれません。今後、ゆっくりと具体的でわかりやすい記事も増やしていけたらと思っていますので、参考程度にお付き合いいただけると嬉しいです。何かしら、考えるヒントや希望が見つかりますように。
わすい
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【経験談】アスペルガーの彼氏がパニックになった時にやってよかったこと3つ
アスペルガー症候群には猫好きな人が多い?ASDの人が猫を飼うメリットアスペルガーの彼に惹かれた自分
同じような匂いがした。
私自身は定型発達だと思う。
そう診断されたわけではないが、社会での自分の振る舞いを客観的に見てみるとそう思うし、彼もそう言っていた。
ただ、多くの人がするように振舞うことは、時にものすごく無理を伴うものであるし
私の極端で本質的な思考を、これまででいちばん理解してくれたのが彼だったことを考えると
私もじゅうぶんにアスペルガー的特性は持ち合わせているように思う。
人からは理解されにくい何かを抱えている。
そんな、影のようなものを彼に見た。
出会ったころ、私は彼から、自分と似たような匂いを感じていた。
「アスペルガーって知ってますか?僕はそれです」
それがどういうことなのかを、この時の私はまだきちんと理解できてはいなかった。
出会ってすぐ、私たちは仲良くなった。
心を開いてくれている感じがしたし、自分も心を開くことができる相手だと認識していた。
思えば私は小さい頃から、周りからは「変わっている」と思われるかもしれないような人たちと、とても仲が良かった。
誰とも話さないような人が、自分には心を開いてくれることが多かったように思う。
私自身も、自分では「普通」にしているつもりでも、人には「変わってるね」なんて言われたりする。
別にそれが苦痛というわけでもなかった。
そういうものだと思っていた。
なので彼と仲良くなったのも必然のように感じていた。
彼にもそんな話をしたと思う。
彼はそんなことを言う私に、いったいどんな気持ちで自分はアスペルガーだと告げたのだろう。
当時の彼にとって「人と違う」ことは、生きづらさでしかなかっただろうと、今となっては思えるのだが。
「普通」に付き合い始めた私たち
「普通」などないと私は思っている。
それでも、便宜上この言葉を使ってしまうことが、私にもある。
しかし忘れてはいけない。
何かが「普通」で「一般的」になればなるほど、そこからあぶれてしまう人だっておそらく存在するのだということを。
似たようなことは、米津玄師さんも言っていた気がする。
誰かが考える「普通」というのは、誰かが感じている「当たり前」というのは、その存在だけで誰かを傷つけているかもしれない。
たとえ生きづらくても、そのことを忘れずに私はこの先も生きていきたいと思っている。
ただ、当時の私はおそらく「普通」に彼と付き合い始めたのだった。
彼は私に「普通」にアプローチし、「普通」に告白してくれた。
少なくとも当時の私の目にはそう映っていた。
アスピーな彼と定型な私の共通点
アスペルガーではなくても、それに似た特性を持つ私のような定型発達の人は、実は少なくないのではないかと思う。
世の中で「とりあえずうまくやる」みたいなことはできるのだが、それはとてもしんどいことがあるし、やれば「普通」にできているように見えてしまうのが、また生きづらかったりもする。
一見「普通」に見えるが、そうではない。
そういう類の生きづらさは、彼と私の共通点と言えたかもしれない。
思考の部分でも私たちはとても似ていた。
本質的で極端な思考だ。
純粋とか、真っ正直とも表現できると思う。
良くも悪くも、嘘偽りがなかった。
世の中の人は「本当のこと」を言う人を好かない傾向にある気がするが、なぜ「本当のこと」に向き合わないのだろう、と素朴な疑問を抱くタイプだった。
そして感受性の高さ。
「普通」はおそらく考えないような、突き詰めた考え方を普段からしている気がする。
「普通そこまで考えないよ」とか「物事を深く考えるんだね」とか、人は言う。
しかし言うならば、これが私たちにとっては「普通」だった。
アスピーな彼と定型な私とのすれ違い
ただ、やはりそんな一筋縄でいくわけもなかった。
アスペルガー症候群だと診断されている彼の感じる「普通」と、彼からすればある程度「普通」に生きてきた私の「普通」が同じはずはなかったのだ。
物事の受け取り方が違う。
時の流れが違う。
それから、怒りの表し方も。
彼は私が意図したのとは、全然違う受け取り方をした。
何の気なしにしたことや発した言葉の、捉え方が全く違っていたのだ。
「普通はそんなことをしない」「普通はそんなふうに言わない」と彼は考える。
私の「普通」では傷つかないことで彼は傷つく。
「普通」と「普通」のすれ違いだ。
ところが、その時々には、彼は感情をうまく表現できない。
その場その場で自分の感情を相手に伝えるのが苦手なのは、アスペルガーの特性に共通して言えることなのかもしれない。
彼の場合、それは後から怒りとして現れた。
この、受け取り方と時の流れの違いを互いが理解していれば、何か違っていたかもしれない。
アンガーマネジメントができない彼の怒りが大爆発
爆発という言葉がふさわしかった。
彼はいつも、不安や悲しみをすべて怒りに変えて表現していたように思う。
もしも、アスペルガーの彼氏の怒りにように心を痛めている人がいるなら、知ってほしい。
「怒りの奥には不安や悲しみがあるのかもしれない」という考え方が存在するということを。
どうしてそんなに怒るのか、その気持ちや根本的な原因を考えて心を配ることができれば、見えてくるものはあるはずだと私は思うのだ。
それにしても、彼の怒りは常軌を逸していた。
どうか、言葉の暴力で大切な人を傷つけないでほしい。
その言葉を受ける側は、酷ではあるが、言葉を発する本人もどうしようもなく困っているということを理解したい。
心の奥底にある、不安や悲しみがそうさせるのではないかと、思いやりたい。
そこを見つめながら、2人で怒りの爆発を避けるにはどうしたらいいかを、一緒に考えていけたら素敵だと思う。
本当に大切な人が相手なのであったら、人は変わっていけるのだということは、私と彼が身をもって証明している。
初めての別れと復縁
一度別れたことがあった。
その時は、この先これを何度も繰り返すことになるとは思いもしなかったが。
私たちには共通しているところもあれば、圧倒的な違いもあった。
その圧倒的な違いは、ただでさえ深い彼の孤独をさらに深めた。
私は人と違ってはいたが、そのことに孤独を感じてはいなかった。
出家してひとりで山寺にこもって生きるのもありだと本気で思っていて、それはどこか楽観的でもあった。
今思えば彼は、私と付き合っていても、ずっと孤独を深め続けていたのかもしれない。
ある日突然それが爆発して、私たちは別れた。
それは、とても言い表せないような痛みと苦しみを伴う別れだった。
一方的に怒りをぶつけられ、理不尽さも感じたが、彼がつらいのが伝わったし、とにかく自分もつらかった。
結局24時間も経たないうちに、彼の方からやり直したいと連絡がきた。
しかし、これにて一件落着などということでは決してなかった。
わかり合うために励む日々
一度別れるまで、私は彼と「普通」に付き合っていたように思う。
それはただ、自分たちの「普通」をぶつけ合うだけの付き合いだった。
「私はこう思う」「僕はこう思う」の繰り返しで、じゃあそれを知ったうえで「2人としてはどうしていこう」という考えが抜け落ちていた。
私はアスペルガーをわかっているようでわかってはいなかった。
自分で経験したわけではないから当然と言えば当然だ。
人が人を「わかる」のは、その人が同じような経験をしたことがある場合か、本気で知ろうと行動した時くらいだ。
それでもちゃんと「わかっている」かどうかなんて、確かではない。
私は、これまでの彼の経験をきちんと知らないまま、自分の経験から彼と会話していただけなのかもしれない。
彼の言う「わかろうとしてくれていない」とは、彼自身の感じ方・捉え方・特性を知り、彼自身にできることは何かを考えようとしてくれない、という意味だったのかもしれない。
私ならこうする、こう考える、だからこうしたらいいのでは?じゃ、いけないのだ、きっと。
私は彼ではないのだし、人がどうであろうと、彼自身はそう感じていて、辛かったり苦しかったりするのだから。
そう思い至って、私は本気を出した。
もちろんこれまでだって本気だったが、自分が知識を付けようと思った。
やり方を変えてみようと思った。
それで、「2人としてはどうしていこう」を考えていこうと思った。
彼を知ろうとしていろんなことをした。
書籍を読み比べたり、当事者や周りの方のブログを読んだり、そういう方がどんなことを感じ考えているのかをTwitterで見てみたり、当事者の方に直接質問したり。
その努力は彼に伝わっていた。
彼の過去に心を配り、彼がいま感じているものに向き合おうと努め始めてからというもの、みごとに衝突することがなくなった。
人にできることはそれぞれ違うので、変われる人が変わればいいし、別のところではまた支えられながら生きていけばいい。
そう思っていた。
アスペルガーの彼への誤解
いろいろと勉強するなかで、アスペルガーの人がよく周りからかけられる言葉、といった主旨の読み物を読んで印象的だったのを今でも覚えている。
「努力が足りない」とか「それは甘えだ」とか、そんな言葉が記されていたと記憶している。
なぜこれが印象に残っているかというと、当初私自身が彼に対してそう思っていた節があったからである。
しかしこれはとんでもない誤解なのだ、きっと。
私なんかは、根が努力家なもんで、なんでも努力でなんとかしてやろうと思っていた。
本当に心から望んだことならできるし、できないのは本気でそうは思っていないからだと信じていた。
自分自身に関しては今でもそう思っている。
ただ、世の中の自分以外の人間は、全員自分ではないのだから、みんながみんな同じなはずもない。
彼らが毎日を生きているということは、それはきっと並々ならぬ努力によって成り立っているのだ。
それは、他の人ができるとか、もっと楽な生き方があるとか、そういう話ではおそらくない。
ただただ本人にとっては毎日が努力で、甘えなどでは決してないのだ。
社会が求める「普通」に、いつも苦しんでいたのだと思う。
彼の理解されない孤独感
ただ、見た目は「普通」な彼の生きづらさは、なかなか周囲に、社会に、理解されるものではなかった。
彼は、親にすら理解されないと嘆いていた。
話しに聞く限り、それは彼を思ってのことではないかと私には思えたが、彼は自分を「わかろうとしてくれていない」ご両親を恨んでいるようだった。
彼のご両親とは、一度会ったことがある。
良心的な方たちだった。
ただ、彼が孤独を深めていたわけも、今ではなんとなくわかる。
彼と、ご両親の間で何が起きていたかというと、「私が彼を知る努力を始める前の私たち」のようなすれ違いが起きていた。
彼が親に求める「愛し方」と親の「愛し方」が異なっていて、彼はそれをことごとく後ろ向きに受け止めていた。
彼自身がどういう痛みを感じていて、彼自身に適した解決方法は何か。
彼の主観をすっとばして、「これはあなたのために言っている」「こうしたほうがいい」とばかり言っては、うまくいかないことがあるのだ。
もし、理解できないしされてもいないと感じる相手がいるなら
自分にはわからない相手の痛みを、それでも向き合い知ろうと努力したり、自分の気持ちの伝え方を変えてみたり
そういうことが必要なのかもしれない。
自分にあるものでしか、私たちは人やものごとを捉えることができないから、
とことん質問してみたり、新たな知識を増やしてみたり。
うまくいっていない方法を続けても、なかなかうまくいくとは思えないから、
伝え方を変えてみたり、自分が変わろうと努力してみたり。
それが、「自分ではない誰か」と知り合い、理解し合うための第一歩のような気がしている。
これは彼が言っていたことだが、私に出会うまで、彼をそうやって知ろうとした人はいなかったらしい。
本当の意味で理解されることが少ない、彼の孤独の深さが伺える。
それゆえの自己肯定感の低さ
周囲に理解されない。
家族や、下手すれば恋人にも理解されない。
それが延々に続くと、どうなるか。
彼は根本的なところで、自己肯定感がかけらもなかった。
ずっと否定され続けているようなものだろうから、それは自然な結果なのかもしれない。
ちなみに、正確には、実際に否定されているのかというと、必ずしもそうではなかったりする。
ただ、多くの人が否定しているつもりでなくかけた言葉でも、否定されていると感じてしまうことは多々あったのではないかと想像する。
ただ、多くの人が言うことに自分が共感できなければ、それが小さい頃からずっと続けば、自分がおかしいのかと思ってしまっても仕方がない。
劣等感が募り、自信はなく、自分は無価値な人間だと、ことあるごとに言っていた。
「こんな自分とは付き合わない方が良い」
そして、それはすぐにこうした言葉となって現れる。
彼からすると、なぜ私がそんなにも自分に一生懸命なのか、本当にわからなかったのだと思う。
「人を好きになるのに理由などない」という言葉について、私はそうかもしれないとも思うし、それは怖いことだとも思う。
理由のある好意は、裏を返せばその理由が消えるとともに消滅するかもしれない。
理由のない好意は、同じように理由もなく冷めたりするのだろうかと思うと、怖い。
とにかく当時の私は、自分が彼に対して本気であることを伝えられても、なぜそんなにも本気なのかをうまく伝えることができなかったのだ。
彼と付き合うのは、他の誰かと付き合うより、情緒的な相互関係を築くことにおいて難しさはあると思う。
彼の言う「こんな自分と付き合わない方が良い」というのは、そういう意味で、確かにその通りだとも思う。
ただ、そういったこと以上に、私は2人で得られるものの大きさを感じていた。
付き合いの難しさや伴う痛みを考えても、
いや、むしろ人付き合いが特に難しい者同士だからこそ、こんなに心を開き合ったこの関係は特別なものだった。
彼にしたら「こんな自分」としか思えなくても、私にはとてもそうは思えなかった。
人に何を見出すかなんて、見る人によってきっと全然違うのだ。
もし、いちばん身近な人が自分を価値のある存在だと言ってくれるのなら、難しくはあると思うがその言葉を信じてみても良いのではないだろうか。
それは、彼が信じる彼の価値と、かたちが違っていたかもしれない。
ただ、その「価値がある」というのは、社会が言っているわけではない。
いちばん側にいる人間が言っているのだから。
繰り返す別れと復縁に病む私
彼はすぐに崖っぷちへ行ってしまう。
そのことは、彼自身も私も了解していた。
ただ、ここまで関係を築いてきて、それでも彼の行きつく先は、毎回怒りと別れだった。
衝突やすれ違いこそ減ったものの、だからといって彼が怒りや感情をコントロールできるようになったというわけではないのだ。
彼の怒りの種は、感情を揺さぶる要因は、日常生活のあらゆるところに転がっている。
自分自身に怒っていることもあれば、何か別のことに怒っていて、その怒りが絶望となりふたりの別れに行き着くこともあった。
そして、いつも怒りと絶望をぶつけてしまって、ひどい自虐や暴言を言葉にしてしまって、自己嫌悪に陥って、「こんな自分とは付き合わない方が良い」という結論に落ち着くのだ。
思考の流れとしては、とてもよくわかる。
こういう場合できることを考えると、怒りの原因への認識自体を変える、怒りを感じた時の行動をコントロールする、などが思い当たる。
認知行動療法とか、アンガーマネジメントと呼ばれるようなものだ。
もちろん、簡単にできるものではないので困っているのだと思う。
それはわかっていたが、それでもいろいろとやってもらった。
いろんな方法を試し続けた。
変化はあった。
そもそも、こんな自分をどうすればいいかわからないと言って怒りを覚えるところで止まっていた彼に
こうすればもしかすると上手くいくかもしれないという道を伝え続けることで、彼はそれを試してくれるようになった。
止まっていたところから、動き出した。
「出会ってから、人生が動き出した感じがする」と言われた時は本当に嬉しかった。
しかし
それでもやはり彼の精神はいつも不安定だった。
彼が私に理解されるようになったことは大きな意味を持ったかもしれないが、だからと言って彼が日常生活で感じるストレスが消えてなくなるわけではなかったからだ。
その波は、私の人生の節目の日であろうが、体調の悪い時であろうが、友人の前であろうが、関係なくやってきた。
ここまで一緒にやってきて、まだそんなことを言われないといけないのか、というようなこともあった。
それは逆に、ここまでやってきたからこそ、言われるとショックが大きかった。
でも彼の中では
理解されない⇒私への怒り⇒自己嫌悪⇒別れ
の流れが
日常生活がうまくいかない⇒自己嫌悪⇒ここまでしてもらっているのに何も返せていない⇒やっぱり別れた方が良い
の流れに変わっただけだった。
難しいとかそういうことはわかったうえで、それでも一緒に生きていこうって、そういうことじゃないの。
「こんな自分とは付き合わない方が良い」なんて、合理的に考えたらそうかもしれないし、私だって1人で生きた方が楽だと思うし、でも、それも承知のうえでここまで築いてきた関係じゃないの。
これが、いつだったか何かで読んだ、「情緒的な相互関係を築くのが難しい」ということなのか。
月に数回、人生でいちばん経験したくないような別れがやってくると、さすがの私も病む。
カサンドラという存在を知った
正確には、前からその存在は知っていた。
が、実感として知ったという感じだった。
何度も別れては戻ってを繰り返すうちに、今の自分の状態を指して言うものなのかもしれないと思うようになった。
通算6回くらいの別れを経験したあたりから、自分の感情が消えた。
感情が麻痺した状態が続くことは、前に経験したことがあったが、これはうつにもある症状で、よくない兆候だ。
彼のような相手と本気で付き合うのなら、自分自身の心を自分で良い状態に保つケアを忘れてはいけないと思う。
うっかりしていたが、私は自分でも気づかないうちに疲弊しきっていた。
今思えば、これがカサンドラ状態というものだったのだろう。
10度目にそう言われた時、私は別れを選んだ
その後も何度か一方的に別れを告げられるようなことがあった。
大きな喧嘩もあった。
荷物をすべて投げ出された。
初めて手を出された。
身の危険を感じた。
怖いと思った。
彼は本気で困っていたし、本気で謝っているように見えた。
カウンセリングを受けることにしたようだった。
話し合いも人のいる場所で行うようにしてくれた。
あんなに恨んでいたご両親とも関係を改善する努力をしてくれた。
それが彼の根本にある問題だったから。
他人である私のために彼がそんなに行動するなんて、すごいことだった。
そのことは、私も人と深い関係を築くのは苦手なので、よくわかっていた。
私は出来る限り協力したいと思った。
その間にも「やはり別れた方が良い」と何度か言われた。
これは、共依存かな?と思った。
よくわからなかった。
「別れた方が良い」なんて今さらだと思った。
そう言われるたびに、だんだん自分の中で彼への気持ちよりも、苦しい思いのほうが大きくなっていくのがわかった。
彼はもちろん完璧ではないが、私だって完璧ではなかった。
10度目に別れようと言われた時、私は別れを選んだ。
人生でいちばんつらい失恋とそれからのこと
別れた後、彼から何度も連絡が来たが、私は一切の関係を絶った。
脅迫めいた言葉が、痛みの裏返しだとわかってはいても、もうこれ以上は受け付けられなかった。
自分が努力をしたいと思えるうちは、できる限りのことをしたらいいと思うし、苦痛の方が上回りそうしたいとも思えなくなったら、やめるほか思いつかなかった。
それはとてもシンプルなことだ。
ただ、どうやって納得したらいいか、わからなかった。
こんなかたちで終わるような関係ではなかったはずなので、こんな関係に終わらせてしまったことを、私は遺憾に思っている。
と同時に、当時の自分にはこれ以上なかったとも思っている。
本気で別れるつもりがないのなら、そういう付き合いをしているのなら、「別れよう」なんて簡単に言うべきではない。
それは、あの時の彼もそうだし、今の自分だってそうだ。
これは、それから2年ほど経って書いたものだ。
とても抽象的な内容だと思う。
付き合ってから別れてしまうまでのすべて、なんて本当は語りつくせるはずもない。
綺麗な部分も醜い部分も丸裸の関係だった。
人の目にはどう映るだろうか。
「もっと大切にしてくれる人はたくさんいる」
「やめておいたほうがいいんじゃない」
「なかなか難しい関係だと思うよ」
全部その通りかもしれない。
多くの人に理解されるような関係ではないかもしれない。
そう、多くの人に理解される関係ではなかったからこそ
互いをわかろうとして、わかることができたと感じる部分があったからこそ
尊い関係だった。
それを、最悪なかたちで失った。
でも
これを、なかったことにはしたくないと私は思っている。
これは、美しい関係だったと私は思う。
理不尽で、不本意で、最悪な別れ方も含めて。
忘れたいようなことも、自分にとっては、なくてはならない時間だった。
彼と出会わなければ、私は人を愛するということを諦めていたかもしれない。
彼の痛みを知らなければ、私はこの先ずっと誰かを傷つけ続けていたかもしれない。
あんな風に知ろうとしなければ、後に出会う大切な人をこんなふうには大切にできなかったかもしれない。
今ではそんなふうに納得している。
消してしまいたい過去ではない。
いつだったか、米津玄師の『Lemon』を聴いて、(この曲は死別の詩だとよく言われているが)もし自分たちが別れるとしたら、こんな感じなのかもしれないと思って泣いたことがあった。
本当に、そんなふうになってしまったな、と思う。
でも、そんなふうで、よかったな、と思う。
彼もそうやって、どうにか今に納得していてくれたらいいな、と思う。
おわりに
例えばテレビで芸能人を見て、クラスの人気者を見て、傷つく人間もこの世にはいるのだと思う。
その芸能人や人気者に、人を傷つける意図がまったくなかったとしても、だ。
同じように、私にこの文章で人を傷つけようという意図はまったくないのだが、この存在だけで誰かが傷つく可能性はあるのかもしれないということは認識している。
ただ、私は、起きたことをかたちにすることで
それを見た誰かが、心の支えとする何かを、あるいはどうにか現状を打破するきっかけを
見つけられるかもしれない。
その可能性にかけてみたいと思う。
それから、そう思えるような穏やかな今を一緒に築いて、隣で支えてくれているのは現在のパートナーだ。
そのことに感謝しつつ
今辛いどなたかが、最終的にどんな道を選ぶとしても、何かしらの希望を持てるような
そんなかたちで、自分の過去や現在を、綴ることができればいいなぁと思う。
アスペルガーと定型発達の2人が、理解し合いながらやっていくことだってできるはずだし
人生でいちばんつらいと感じるような別れを経験しても、きっといつか立ち直ることができる。
長い長い文章に最後までお付き合いいただきありがとうございました。
ともに無理せず、できることを探していきましょう。
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コメント
たくさん得るものがありました。
この記事を書いてくださったことに感謝です!
定型発達との恋愛では感じることのない気持ち、いっぱいですよね。
代わりに人間本来のピュアさに触れられる気もしますよね。
全てを言語化し発信してくださまたことに感謝とリスペクトです。
今後も記事楽しみにしています!
こしゃさん
初めまして、ブログ運営者のわすいです。
今更ではありますが、、コメント本当にありがとうございます!
このブログに初めていただいたコメントで、心から嬉しく思ったことを覚えています。
非常にスローペースではありますが、今後も記事を更新してゆくつもりでおります。
気長に見守っていただけると嬉しいです。。。
初めまして。
まさに、まさに、自分と同じような瞬間、出来事、漢書ばかりが綴られていて
とてもびっくりしました。
私はあすぺるがーの彼と付き合って1年半が経つのですが
今ギリギリ糸でつながっているような不安定な関係性です。
彼を理解したく、この関係を修復したいのですが、
お話聞かせていただく事はできないでしょうか。。。
記事の更新心待ちにしています。
みゆさん
初めまして、ブログ運営者のわすいです。
コメントありがとうございます!
ギリギリの関係性、とてもよくわかります。。。
わたしにできることがあれば、お力になれると嬉しいです。
みゆさんと彼が素敵な関係を築くことができますよう、陰ながら応援しております。
わすい
別れてからもうすぐ一ヶ月経ちます。彼がアスペルガーだったと最近気付きました。私はそんなことだと知らず彼をたくさん傷つけてしまいました。このまま彼と進めば私もそうなっていただろうと思います。わかっていればそんな彼を受け入れ理解していくつもりだったのにと考えましたがきっと私が頑張っても努力してもいつかは終わっていた気がします。
泣きながら読ませてもらいました。この記事を読ませてもらって、今はまだつらいですが、この経験を生かして前を向いて歩こうと思えるようになりました。ありがとうございました。
ゆかさん
初めまして、ブログ運営者のわすいです。
コメントありがとうございます。
お辛い気持ち、痛いほどわかります……
私も、今になっても、あの時傷つけてしまっていたんだろうなと、思いだしたり気がついたりすることがあります。
毎日ごはんを食べて、ゆっくり休んで、どうか無理をなさらず日々をお過ごしくださいね。
私たちのこの経験が活きる瞬間が、この先の人生できっとやってくるはずだと私は思っています…!
ゆかさんの前向きなコメントに自分もまた励まされました。ありがとうございました。
内容がほんとに自分の経験と完全一致していました。
自分なりにすごく色々調べて、どうしたらいいか考えて行動し続けて、それでもすべてを悪意にしか受け取られなくなり、何度も別れ、その度に理不尽なことにすら頭を下げ、関係をつなぐ努力をし続けました。
どうしてそう思うの?私はこういう意味でこの言葉を言ったんだよ。そんな意図は全くないんだよ。
話し合いを何度もしました。
最終的に、もう愛情はない、二度と関わるな、そう言って私のすべてをブロックしました。
不思議なもので、理不尽にキレられる度にもう無理、別れよう、そう思って私の中の怒りが爆発しそうになるのですが、ブロックされると悲しくなるんですよね。
どうしてわかってもらえないんだろう、どうしてこの言葉をそう解釈するの、どうやったら伝わるの、そんなことばかり考え続けて、自分が病んでしまいました。
次にブロックされたらもうこっちから声はかけないでおこう。
何回目かの別れのときにそう決めました。
別れる度にごめんね、私は好きだよ、一緒にいたいよ、と伝えてきましたが、それをやめたら呆気なく関係は完全消滅しました。
それからは、彼はSNSに楽しそうに遊んでる投稿を続けていて、私のいない世界で楽しいんだなと実感して、自分の中の色んな感情が消えていきました。
残ったのは、私が何を言っても誰にも理解してもらえない、という、すべての人に対して何かを口にすることへの恐れだけでした。
私の傷はまだ癒えません。
人を怒らせることしかできず、もう誰も私と付き合いたいとは思わない、誰とも楽しくできない、そんな気持ちが自分の根底に根付いてしまいました。
そして、こうなった経緯や私がしてきたこと、彼に言われたこと、されたこと、誰に話しても理解は得られないし、そもそも話しきれるような簡単なものではない。
なので、この記事を読んで初めて、そうか、と思いました。
私だけじゃなかった。
誰かと思いを共有することができたと感じました。
ただただありがとうございました。
4年付き合った精神疾患持ちの彼女と別れました、
(強迫性障害、パニック障害、アスペルガー)
最初の1年は特に大きなことはなかったのですが、
2年目以降悪化、それ以降の3年間は酷いものでした。
・自分勝手過ぎる。(自分がしたいことしかしない)
・自分の勝手な行動「1000」に対し、こちらの勝手な行動「0.1」を責め立てる、
(もちろん本人は自分の勝手な行動自覚しておらず悪いと思って無い)
・「やめて」と言ってもやめる確率は「0%」
・いくら正論で諭しても0.00000001%も理解してくれない。
私は自分で言うのも何ですが穏やかな性格です、
最初の1年はそれなりに幸せだっただけに
「なんとかしてあげたい」と、色々調べたり、諭そうとしたりと必死でしたが
いつからか「機嫌をそこねないようにしよう」という思考だけになりました、
それでも毎日のようにキレられるようになりしんどくなってお別れしました、
こちらまで精神的におかしくなりそうでした。
そういう世界です、しんどくなってここに来た方、
ご参考になれば幸いです。